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音楽全般、とくにk-pop(神話/SHINHWA)をはじめ、もろもろ話題でまったりと。どなたでもおこしやす。


by gaaco
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"大衆的であること"への挑戦

\"大衆的であること\"への挑戦_e0006314_142642.jpg
「大衆的であること」ってどういうことなんだろうと、あらためて考えてみた。



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「大衆的であること」ってどういうことなんだろうと、あらためて考えてみた。


わが人生最大に敬愛する歌うたい、しんへそん。
現在までにソロ1集、2集をリリースしており。

計2枚リリースしたことによって、
1枚だけだった頃にはできなかった、
2枚での比較が可能になったというか。
えっと、なにがいいたいかっていうと


まわりからちらほらと
1集のほうが好き
2集のほうが好き
という感想が聴こえてくるようになったんですね。


でね、1集と2集の違いというか
音楽的にどのような違いがあるか…などということに言及しようとするならば
おそらくずいぶんとこむつかしい話になるのだろうし…というよりそれ以前に
そんな話はわたし自身、よく、どころか、全くわからないので、おいといて。


2集発売前後から、
へそんさんも、広報担当も、
タイトル曲は「大衆的」というキーワードを口にしてきました。

もしかすると今回リリースされた2集は
"大衆的であること"への挑戦
でもあるのかなと思ったのね。


では「大衆的」という要素が、はたして
1集のほうが好き
2集のほうが好き
という、ひとびとの感覚とどんだけ関連性があるのか(ないのか)


ここで話の展開の途中ですが、あらかじめおことわりしておくならば
「好きかきらいか」「心地よいか心地よくないか」などは、あくまで主観であって
理屈であれこれ考えることにあまり意味はないかもしれないとも思われます。

がしかし世の中に「大衆」や「ネーミング」や「マーケティング」というものが存在する以上
それらは軽視してしまったり、もしくはまったく考慮にいれないのも不自然なのかと。



ところでみなさんは
「大衆的」という言葉からどのようなイメージを抱くのでしょうか。

ある人は好意的に
ある人は否定的にとるかもしれません。
それともぜんぜん別のイメージを抱くのか。

わたしは…どっちかな。どっちでもないかな。
というか、とくだん意識したことが、なかった。ただ漠然としたままだったのです。



はなしはとぶようで、関係あるのですが

いぜん配属されてた部署で
「ネーミング辞典」なる書籍をお持ちの先輩社員がおられました。
彼女と出会うまでは「ネーミング」ってコトバをとくだん意識したことはなかったです。
社会心理学を専攻しておられる先輩で、プロジェクトをご一緒した機会は僅かでしたが

その時はじめて意識したし教えてもらったのね、
「ネーミング」の極意というかエッセンスについて。
それで当時、彼女から何冊か拝借して読んだことを思いだし。
だけど記憶は薄れていく一方…


それでさっき
「大衆的」、「ネーミング」関連キーでぐぐってみたの。
んで、ヒットしたのがこちら。


ネーミングは「大衆の感性」で決まる


おもしろかったです。
リンクより一部、引用させていただきますと


        「桜」ということばを聞くと、誰もが暖かい薄紅色の花びらを思い、
        野山を彩るあで姿を思い、花吹雪の風情などを思いますが、

        誰もが持つそんなイメージとは別に、
        天使の吐息をこの語に感じたり、
        地下に眠る屍(しかばね)を思うなど、
        その人が独自で感じるものも少なからずあるはずです。


読みながら、
はーそうだよねー。
そうなんだよねーと。
とくに、後半のくだり。


        誰もが持つそんなイメージとは別に、
        (中略)
        その人が独自で感じるものも少なからずあるはずです。


うーん、
「ことば」や、「おと」から受ける印象。
それこそが音楽をはじめとした「表現」からうけるインスピレーションというか
答えを限定されない、自由度のある楽しみなんだよなーとか、つらつらと。


もしかすると「大衆的」というのは
「放つ側(表現者)」があれこれ考えてどうこう、ということもあるかもしれないが
「受けて側(リスナーあるいは観客)」がうけとったものごとをどう捉えるかという
そのことがらそのものに普遍的というか多面的な側面があること…なのかも。


で、このサイトでは下記のように続くのです


        「大衆の平均的感性」とは、
        人々がある語に対して感じるイメージから、
        一般性のない主観的なものを取り去って残ったもののことをいうのです。


へーそうなんだ…
こうなるとなんかむつかしいイメージ。
ここに記されている

一般性のない主観的なものを取り去って

というくだりについては、ええと…
平滑化するにあたり「一般性のない」と判断する時点でバイアスかかってんじゃないのとか
それらを取り去ってしまうというのが、いいのかわるいのかとかどうなのかとかはおいといて
ここに書いてあることを、まるごとすっぽり鵜呑みにするわけではないですが
おもしろいなーと思ったんですよね、なんか。


そしてこのサイトではこのように締めくくってます。


        ネーミング作りにとって何より大事なことは、
        平均的な大衆がそのネーミングをどんなイメージで聞くだろうかという視点を
        忘れてはならないのです。


ここまで読んだところで、ふときづいたんですよね。
わたしは「大衆的」という言葉に対して若干、ネガティブなイメージを持ってたのかもしれないと。


「大衆的であろう」とすることとは
「八方美人」であろうとすることとイコールっぽく感じてしまうというか
それは「売れよう」もしくは「売れたい」と意識することでもあり
ひとびとの好みを強く意識することであり
ひとびとの目を意識することであり
「売れ筋」を意識することでもあり


マーケティング上、消費者に「媚びちゃおうか」的エッセンスがふくまれる気がして。
それらはマイナスではないのだろうし、商売の上で大切なことがらなのだろうけど。
でもその真逆の、「大衆」をまったく意識しない表現なんてあるのだろうか、とも思う。

それで、あたしは



"大衆的"であることとと
"そのひと"にしか表現できない独自性、オリジナリティとは、いったいどう両立させるんだろう??



ておもちゃったというか。

両者は、相反するものなのか、それとも、共存できるものなのか。
オリジナリティを持ちながら、大衆的。

結局、わたしはまだ、よくわかってないだけなのかもしれないと思ったのね。
「大衆的」という言葉の意味を。


…それで思い出したの。
以前、なにかのインタビューで、
絶好調に売れに売れてた時代の宇多田ヒカルがこのような意味のことを言っていた。
(や、彼女はいまも売れてるんだけどさ)


         「大衆的であること」を、あたしは、ネガティブには捉えていない


彼女のそのインタビューのテキスト中にちりばめられていたエッセンスは、
どういうことかというと、わたしの解釈があっていさえすればなのだけど…
「大衆的であること」とは、「誰もが持つであろう感覚や体験に訴えかけること」であり
「歌い手(うただひかる) 対 何万というリスナー」という図式ではなく
「歌い手(うただひかる) 対 個人個人」なのだ、と。

「リスナー」を「集団」として「ひとくくり」にしてしまうのではなく
あくまでも「うたいて」と「リスナー」とは「いったいいち」なのだと。

彼女はまた、こうも言っていた。
「何万人があたしのうたをきいている、とかって感覚は、実感として、全く、ない。」と。
「それよりも、ただ、あるひとりのひとが、「繋がってる」て感覚を持ってくれるのなら、
そのほうがもう、何万倍も、実りのあることかと」と。

そのテキストを読んで…
はぁ…こんだけ売れてる人でも、こういう感覚なんだなぁと、変に感動したのを覚えている。



わたしはとくだん、マニアックな音楽愛好家ではない(つもり)だし
誤解のないようにいうならば「大衆的な音楽」はとても好きなのね。


だけどその一方で
「とある表現者にのみ可能な、独自の表現の世界観」をも好んで聴いてるのも事実で。

宇多田でいうなら、
彼女のうたや声の好ききらいはあるにしろ、
「大衆的」であり、普遍的に、大衆の心のどこかをくすぐるエッセンスがありつつも
「個々」に訴えかけ、一方で、彼女ならではの「独自性」も持ちあわせてる、というのかなぁ。


ところで、
へそん2集と"大衆性"の焦点に話をもどすならば
タイトル曲「ちょっさらむ」しかり
後続曲の「消して、捨てて、忘れて…」しかり
いずれも「大衆」を意識したものだ、という広報が、世の中に対してテキストとして放たれ…


わたしはどちらの曲も好きだけど
ある意味…
どちらの曲も、へそん以外でも歌いこなせそうな曲かなぁ、と思ってしまった時があったのね。


「へそんだからこそ歌える曲」とか、
「へそんでなければ生きないメロディライン」とかあると思うんですよね。
だけれどもあえてこの2集では「大衆的」というところに彼らは表現者として拘った気がして。
それで、この先、彼はどういう方向にいくんだろうと、とあるへそんぺんさんとやりとりをしたの。

勿論、その結論なんてでないけどさ、
いまはとにかく試行錯誤の段階かと思うのね。
いろいろ挑戦する時期だし。逆にいえば、
いまここで挑戦できないのならば(しないのならば)この先の発展はないだろうし。


へそんには、
へそんにしかできない表現の世界、
へそんだからこそ歌いこなせる歌、ってのがあるとおもう。


だからといって、
「大衆的であること」ってのは、
「オリジナリティがない」というのとはイコールではないんだよなぁ、とも思ったり。

大衆的なメロディラインであっても
じぶんだからこそ彩れる「独自のいろ」をその「うた」に盛り込むことができるなら…
それでいいのだ。そして、へそんはそれができるはずであって…


そういう観点からあらためて
タイトル曲「ちょっさらむ」と、後続曲「消して、捨てて、忘れて…」を聴いてみたのね。

そしたら、後続曲「消して…」のほうに、よりオリジナリティを感じたのね。
歌い手へそんの独自の息づかいが、ちょっさらむよりも、より聴こえたというか。

わたし、ほんとうに、勝手なことを書いております。
ここらへんの感覚は、個人差もあり、好みの問題。


かといってやっぱり「ちょっさらむ」も好きなんだな。
さいしょは、ちょっと物足りないかなとおもったけど、聴けば聴くほど味がでてきたり。


だけど後続曲「消して、捨てて、忘れて」には
へそんの魂が、より、こもってるように感じたり。



うーんと…
本日の題目"大衆的であること"への挑戦


エントリの結論をまとめようとおもったけど
なんだかまとまらない様相をますます呈し、このままじゃ抽象的なまんまだ。


が、ごめんなさい。きょうは、これにて…



にしても、文字ばっかで、読みづらいな。
お口なおしに(なるのか?)、へそんの画像貼っときます。

\"大衆的であること\"への挑戦_e0006314_1414238.jpg


本日のお題とは関係ないけど、
この撮影地、漢江市民公園付近…なのだろうか。

以前、Kちゃんとソウルへ行ったとき、
このあたりへ立ち寄ったのを思いだした。

春から夏にかけての季節で、
すこし肌寒く、でもキンキンには寒くない、不思議な空気感の季節にここへ寄ったのだ。

そして日はとっぷり暮れ、
いつしかひたひたと静かにおしよせる暗闇に包まれながら、
漢江に掛かる橋を渡る自動車の騒音や、
この河を囲むものたちから伝わるさまざまな雑音を聴きながら

あたしたちはなぜか、
Kちゃんが日本から持参していたポータブルのi riverで
韓国のラジオをこの河原で、ひとつのイヤホンを分けあいしばらく聴いていたのだった。
あれは何の番組だったっけ。

なんて言ったらいいのだろう。
どこを足繁く観光するわけでもなく、
ただひたすら漢江の河原で、現地のラジオを聴くだけの時間。
ある意味、あれはあれでなんだかとてつもなく贅沢な時間の流れを過ごしていたように思う。
懐かしいな。…ただの回顧趣味。御免。


こんなこと書いていたら、そろそろ、ソウルへ行きたくなってきた。
あの都市の、独特の時間の流れ。
あの都市の、独特のエネルギーの坩堝。



追伸:
この犬、しべりあんはすきー(だよね?)、かわいい。
が、でかいな...へそんと同じくらいおおきいんじゃないの?
by gaaco127 | 2007-10-30 00:26 | ★ Music(K-pop etc.)